穴MAFIA+

まあ色々と適当に。最近では「さわやか工廠」というサークル名で同人誌を出していたりします。

2010年08月

ちょっと遅いですが、久しぶりに新作ゲームの紹介です。

・Need for Speed Hot Pursuit
オフィシャルサイト
NFSシリーズの最新作は警察との追いかけっこに回帰しました。タイトルもNFS3のサブタイトルから取られていて、内容も警察とのカーチェイスや、パトカーに乗っての追跡が主体のようですが、ネットに接続して他人のレースに乱入する、といったようなことが出来るようです。
個人的には期待しています。


・Mafia2
オフィシャルサイト
以前発売されたTPS、Mafiaの続編です。
今作ではグラフィックが大幅に向上するとともに時代が少し下って50年代から60年代を舞台としています、
海外では既に発売済みですが、日本からだとSteamでの購入がまだできないようです(パッケージ版などを購入してアクティベートはできる)。
また、Steamから体験版が入手できます。気になる方は体験版をプレイしてみるといいでしょう。
前作が面白かったので、個人的には期待しています。ただフリーライドがDLCらしいというのがちょっと悲しいです。



二・二六事件は、1936年2月26日に起こった皇道派青年将校主導のクーデター未遂事件で、鎮圧後は軍法会議により主導者の多くが死刑となりました。
著者は元法務将校であり、戦後は弁護士をしていました。
そんな著者が戦前に軍法会議の倉庫で目にしていた二・二六事件の裁判記録は、戦後の混乱の中でどこかに消えてしまいます。
その記録が東京地検から再び発見されたのは1993年のことでした。
本書はその記録の中からいくつかを参照し、二・二六事件に存在するいくつかの疑問(例えば午後に作成されたはずの大臣告示がなぜか近衛師団に午前中には伝えられていた、或いは事件を積極的に鎮圧しなかった東京警備司令の香椎中将なぜ無罪となったか)に答えていきます。

特に事件の黒幕と目された真崎大将がなぜ無罪となったかについては、公判記録を長く引用して裁判の様子を再現しています。
そして著者は無罪の理由について「真崎大将は国家転覆を目指して青年将校を先導したわけではなく、終始一貫して自らの権勢の拡大、保身に勤めていたにすぎず、事件の黒幕という大層な存在であることを裁判で証明することができなかったため、叛乱者を利する罪に問えなかったのだ」としています。
確かに引用されている裁判記録を読むと青年将校の証言をことごとく否定し、こちらが悲しくなるほどに自身の保身に汲々としている様子がうかがえるので、確かに「叛乱者」を利する意図はなかったと言えるのかもしれません。もちろん大将は彼らの企図を最大限利用するつもりでしたから、そういう意味では責任は確実に存在するものの、それを罪に問うことは非常に困難であったということでしょう。もっとも大将はこのあとすぐに予備役に編入され事実上解任されています。

このほかにも、軍の司法制度やなぜ二・二六事件の軍法会議が非公開一審制になったのかなどを分かりやすく解説しており、後半では著者の簡単な戦歴も記されています。

ごく一部引用と著者の推測の区別が分かりにくい部分が存在するものの、二・二六事件の解説としてはもちろん、軍内で特殊な存在であった法務将校の活動が分かる本だと言えるでしょう。



「西洋は合理的であるから多数決、日本はムラ社会の因習にとらわれた満場一致」
こういうイメージは今も一般に存在するような気がします。そんなイメージを打破する目的で書かれたのが本書です。慶應大学法学部の若手・中堅の教官3人が執筆しています。

本書は四章構成で、まず第一章では西洋における古代から近代までの採決方法の変遷とその理論付けの経過を追っていきます。西洋においては、多数決はもちろん広く行われていましたが、一方で満場一致方式も一部には存在しており、しばしば多数決の不都合を主張する際に現れてきます。

一方第二章では日本の事例を扱い、こちらでも寺を中心に多数決が行われていたこと、室町や江戸時代の農村においても「衆議」による多数決がそれなりの地域で行われていたことを示します。

続いて第三章では第二章から引き続き、「日本はムラ社会の因習(「甘え」)によって満場一致である」とする、当時の知識人を含んだ全体的な風潮を批判したうえで、いくつかの具体例を出していきます。
最後に第四章では、今までの議論をまとめる形で多数決と満場一致の長所と短所を挙げたうえで、こうした採決方法は(その影響はあるものの)文化によって決定されるものではなく、我々が自由に決定するものだとして、読者に再検討を求めています。


この本を最初に読んだときは、特に第三章での批判対象となる意見が「実際の採決方法として満場一致が良く行われる傾向にある」程度の中途半端なものではなく(これは著者自信が否定しています)、「例え多数決の制度を取っていたとしても、実質的には満場一致しか行われてこなかった」という大変極端なものとなっていてました。
かくいう私も日本の仏教界に多数決の伝統が存在したなんてこの本を読むまで知りませんでしたし、今でも印象論で語っている人は非常に多い気はしますが、いくら多くの人々がこの問題を皮相的な印象論で語っているといっても「そんな例外を認めないような極端な意見がほとんどなんてことはあるのだろうか?」と疑問に思っていました。

しかし最近丸山真男氏の『日本の思想』を読んだ際、直接触れているわけではなかったですが、確かに「日本はムラ社会の閉鎖的伝統が因習として残存している」という主旨のことが書いてあるのを読んで、「少なくとも出版当時(1980年)には本当に例外を認めずにそういう風に語る人が多かったのかも知れない」と思うようになりました。

実際の世の中では満場一致と多数決はそれぞれの欠点を改善するため様々な要素を組み込みながら採決方式として使用されています。自分が属する組織ではどうなっていて、どうしてそうなっているのか一度考えてみるのも楽しいかもしれません。



この本はNHKのドキュメンタリー番組「史上空前の論文捏造」を制作したディレクターが、放送内容に加筆しつつ書きあげたものです。なお番組は第2回科学ジャーナリスト大賞を受賞しています。私はこのドキュメンタリーを去年大学の授業で見て知りました。
内容は、2000年から2003年の間学会を欺き続けたヘンドリック・シェーンに関するものです。彼は2000年に超電導分野において画期的な発見をしたという発表を行い、その後も立て続けに論文を発表し、学界を興奮のるつぼに巻き込みました。主要な科学雑誌に次々と論文が掲載され、「ノーベル賞は確実」と言われ、若くして故国ドイツで老舗研究所の共同所長の座を手に入れようとしていたシェーン。しかし2003年、彼の論文がねつ造されたものであったことが発覚します。その後彼の発表した論文の多くが明らかにねつ造であるとされ、学界は今度は混乱におとしいれられました。
「なぜねつ造は3年間も気づかれなかったのか?」この問いに著者は様々な要因を挙げていきます。科学者の性善説、雑誌査読の問題点、「利益を上げなければならない」存在に変貌した研究所、プロジェクトリーダーの権威…。もはや「遊民の道楽」ではなくなり、社会に貢献することが求められている科学の世界では、その転換による様々な課題が存在していることを主張しています。
関係者へのインタビューを含め非常に丁寧な取材を行っており、考察もあまり変なところは見当たらず、きちんと書かれた良書と言えるでしょう。

なお、ねつ造事件として日本で有名なのは




この2冊の本に書かれている、日本の先土器時代に関する大規模なねつ造事件でしょうか。こちらの事件にも先に紹介した本で指摘されている多くの事柄が要因として上げられると思いますが、こちらは世間の目に触れて町おこしなどに利用されたため社会的影響が大きく、教科書が書きなおされ研究所が一つ潰れています。

ブログネタ
救急車に乗ったことがありますか? に参加中!
livedoorブログには、「共通テーマ」なるお題のようなものがあるそうで、さっき記事を書いているときに何気なく上の方を見たら面白そうなテーマだったので選んでみました。

さて、そのテーマは「救急車に乗ったことがありますか?」

私はあります。それもアメリカで。
小さいころ父親の仕事の都合で何年かアメリカに住んでいたのですが、家族で自動車移動しているときに自損事故を起こしまして、私が怪我をして救急車で病院に運ばれました。
乗った救急車が恐るべき代物で、車内に救急隊員はおらず、窓が無いのに明かりは小さな裸電球1つ、薄暗い車内にはよくわからない道具が山積みという状態で、大変心細く恐ろしい体験でした。

こちらのページによるとアメリカの救急車にはいくつか種類があるようですが、周りに家がない場所で事故に遭った記憶があり、命にかかわるような怪我ではなかった(顔にガラスが刺さった)ので、多分私が乗ったのは911で来るBasic Support Ambulanceだったのでしょう。

なお最近日本の救急車の車内(下の写真。陸上自衛隊のものです。)を見る機会がありましたが、私の記憶にあるものとは全く違って明るく広い車内で感動しました。「病は気から」と言いますし、救急器具などを置くスペースが必要だとは思いますが、意識があって運ばれるなら明るい車内の方がいいですね。
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もうすぐ就活なのでそういった関係のイベントにも少し行っているのですが、説明している方の話を聞いていると、仕事に対する明確な目標もモチベーションもない自分に社会人ができるのだろうかとちょっと憂鬱になります。

さて、今回も書籍の紹介です。書籍のレビューは読んだら更新すればいいのでやりやすいですね…といいつつ更新は数カ月に一度ですが。ゲームの方はただやるだけではなくて色々と調べるので個人的にはもっと大変です。



地政学とは、国家がおかれている地理状況がその国の戦略にいかなる影響を及ぼすか、ということを研究する学問です。
本書はその入門として、地政学の概念を解説しつつ、近代以降様々に表れてきた地政学の理論のうち、マッキンダーとハウスホーファー、さらにマハンなどアメリカの地政学者の理論を取り上げて解説を加え、最後に1980年代の地政学的展望を加えて結びとしています(この本の初版発行は1984年)。巻末には章ごとに和書、洋書問わず参考文献が列挙されていて、新書であることを考えても地政学を学ぶ入り口としては有用な本だと言えるでしょう。
しかしこの本を読んで、私は地政学に対するある種の「胡散臭さ」を感じてしまいました。著者が本書で述べているとおり、地政学は論者の政治的状況に多分に影響を受けますし、単に国家戦略を正当化するための理論付けの道具として使われているからであるのかもしれませんが、過剰に経験に頼り過ぎて理論部分がちょっと不十分ではないかと感じました。まあ国際政治は状況の変化が激しいので、十分な理論付けは難しいのかもしれません。

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